「行政の中立性」「表現の自由」を考える

2020年1月25日、標記の講演会が福岡市で開催されました。

講師は、武蔵野美大教授・志田陽子さん。

面白くなさそうなタイトルなのに、とっても面白い内容だったので、分かり易く箇条書き風に報告します(労力を省いてレジュメをコピペしたものではありません! 仮にそう見えたとしても。)

そもそも表現の自由の制限が許されるのは、現代社会においてはその表現行為が「他人の生命・健康を害する」「人間としての尊厳を害する」「他人の人権と衝突する」という場合のみに限定されると私は理解しています。

そこで、近年問題になっているのが、「愛知トリエンナーレ」で話題になった地方自治体による後援拒否や公共施設の貸し出し拒否の問題です。

今回の講演会も、福岡市による「平和のための戦争展」後援拒否問題がきっかけです。

 

1.表現の自由が何故必要か

 

・ 表現の自由は個人それぞれの人格を支える(自分の考えを発表し、他人の考えを知ることによって人格的発展を遂げる。)

・ 真理の探究を支える(国が「正しい答え」を押しつけず、人々が自発的に切磋琢磨できる状態が必要→思想の自由市場)

・ 民主主義を支える(民主主義は市民の自由な情報共有や意見交換で成り立つ)

・ 萎縮しやすい権利(表現の自由は、罰や脅しなどがあると萎縮してしまう弱さがある)

 

cf.現在高い価値が認められている芸術・学術・政治思想(例えば民主主義)も出てきた当時は価値が認められず、

不快がられた。→ 誰かにとって不快ということだけを理由に「表現の自由」を制限してはならない。

(不快感と「ヘイトスピーチ」との峻別)

 

2.公(国や自治体)は、表現の内容には可能な限り関与しない。

 

表現の自由を守るためには、公は表現の内容に干渉しないのが原則。

 

3.「行政の中立」と「表現の自由」

 

・ 行政担当者は、採用された政策や事業について個人又は特定の政治見解を持ち込まず、その実施を業務として引き受けるのが「行政の中立」の本来の意味。→  市民の側の表現活動に中立を求めるルールではない

・ 「政策・行政の公共性」は、市民の側の自由を支えるもの。→ 公共施設の利用を正当な理由(名誉毀損、個人情報  保護違反、著作権侵害等々)なく拒んではならない。

 

4.萎縮を止めるために

 

・ 表現の自由は、民主主義の基礎体力

・ 「広報」と「支援」の違い確認 → 行政は、単に広報のお手伝いであり、特定の表現を支援するものではない。表現の自由の保障。

・ 行政の側は、「ことなかれ萎縮」をやめるべき。

萎縮による後援拒否や会場使用拒否は市民の表現活動を妨害することになり、そのことで公益を失い、自らの中立性を失うこととなる。

 

この講演で学んだことは、(ヘイト等でない限り)行政はどの様な議論も(内容に関わることなく、事務的に)認めるべきであるということ。

内容が政治的に偏っていないかを判断しようとするから、表現の自由に反するとの問題が発生する

原発問題や改憲問題等政治的と思われるテーマ、意見が対立しているテーマであっても、(そこで尻込みするのではなく)積極的に、賛成意見も反対意見も、その意見表明を援助することが民主主義、言論の自由を守り発展させることに繋がるということ。

「様々な議論があるから、行政はどちらに対しても協力しない」は、結局、物言わぬ思考停止の国民を作ることになるのではないか、「どちらの意見表明にも協力する」のが、行政の本来のあり方だと思った次第です。

 

一言付け加えると、タイトルのとおり「表現の自由は萎縮しやすい権利」だから、国民一人一人が意識的に表現の自由を発展させるために努力していくことが大切だ(憲法12条の実践)と痛感しました。

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武田 哲幸

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